カーテル、カーテル、カーテル その1

ヴァイブス・カーテル、殺人罪で終身刑。

35年経たないと仮釈放もとつかない、という非常に重い刑が下されました。ショーン・ストームを含むほかの共犯者4人も全員終身刑、仮釈放まで25~30年。主犯と目されたカーテルが、一番重い刑です。

有罪になったときは、「そうだろうな」と暗い気持ちで受け止めただけだったのですが、判決が確定して、このままだと二度と彼のステージを見られない、という事実に、私は完全に打ちのめされています。

いままでも事件の概要と裁判の経過を分かる範囲で伝えようと何度かトライして、その度に挫折しました。いろいろと不審な点がある、変な事件なのです。それでいて、「カーテルははめられた」という意見にも「そうだ、そうだー」と同調できない自分がいて。ジャー・キュアーの面会/獄中インタヴューをStriveに書いたときに、中立を心がけたにもかかわらず、「あの記事を読んで、無罪だと思っている人がたくさんいる」と言われたのも、傷になっています。
着地点を決めないで、まず、カーテルのキャリアと時代背景を振り返るところから始めてみます。どこにも行き着かないかも知れないし、何かしら見えるかも知れません。長くなると思いますが、興味のある人はつき合って下さい。

基本情報 2002ー2005

ヴァイブス・カーテルことアディジャ・パーマーは、比較的、遅咲きのアーティストです。2002年に“New Millemium”や“Tak Body Gyal”でガーンと出て来たときは、すでに26才。1976年にキングストンのウォーターハウスで生まれて、子どもの頃に郊外のポートモアに引っ越しています。決してお金持ちではないけれど、両親がいて、6人兄弟仲良くて、という普通の家庭出身。最初のインタヴューから「兄弟は優秀」と言っていたように、いまも副校長先生のお姉さんか妹がよく出て来てコメントしています。93年に「アディ・バントン」という、あちゃー、な名前でデビューしたものの当たらず、その後「ヴァイブス・カーテル」という3人組を組むもやはり当たらず、スペルを変えてソロに戻り、バウンティ・キラー率いるアライアンス入りを果たし、本人曰く、しばらくキラー番長のゴースト・ライターをしてました。

00年代頭は3B時代(ブジュ、ビーニ、バウンティ)の絶頂期であるとともに、世代交代が始まっていた時期でもあり、いわゆるメジャー・マーケットではショーン・ポールとエレファント・マン、ウェイン・ワンダーがアトランティックと契約してダンスホール・レゲエ自体が注目を浴びていました。ショーンがビヨンセと“Baby Boy”(2003年)を大ヒットさせたのが、ダンスホールというコインの表側(インターナショナル)だとしたら、裏側(=島内)ではカーテルがグァーっと前に出て、新しいサウンドとフロウを生み出していました。遅咲きだった分、最初から完成度が高く、ピカッと光っていて、何をやっても新しかったのが、ヴァイブス・カーテルでした。一方、シズラやケイプルトンといったベテラン・ラスタも名作をガンガン発表していて、リッチー・スパイスやアイ・ウェインらニュー・ラスタがビッグ・ヒットを放って、お揃いダンスのニューダンス・ブームでダンサーが注目されて……という、たくさんのムーヴメントと勢いのある時期でもありました。

ストーン・ラブの「年間ベストDJ」に新人なのに選ばれたり、イギリスのグラミー章にあたるMoboアワードを受賞したり、グリーンスリーヴスと契約したり。カーテルは、異彩を放ってハードコアなバッドマンDJの中では頭一つ抜き出ていたものの、あくまでも「新人の人気アーティストのひとり」でした。アライアンスからは03年にビジー・シグナルが“Step Out”をクロスオーバー・ヒットさせ、04年にはマヴァードがシンガーの強みを活かしてハードコアでメロディアス、という新機軸で圧倒的な人気を集め、そうこうしていうちに、ジャマイカ的に男前タイプのアイドニアやアサシンも出て来て……という戦国時代に。


 (当時の写真です。先日亡くなったローチとよく一緒にいました)

 

リリックの巧妙さ、言葉の載せ方が斬新で、ラブリッシュのジュンちゃんに「カーテルのDJはホントにオシャレ」とまで言わしめたカーテルですが、下ねたでも暴力ネタでも、そのリリックの激烈さに眉をひそめる保守的なジャマイカ人も多く、メディアにも好かれていませんでした。極めつけは、スティング2003。オリジナル・バッドマンDJのニンジャマンにディスられて言い合いになったところからDJクラッシュが企画され、みんながワイノワイノ楽しみにしていたのを、なんと、カーテル、本気で殴り掛かる、という暴挙に出たのです。
私は、ジュンちゃんと最前列で見ていました。ケンカが始まってステージがもみくちゃになり、観客から怒号が上がったとき、「ヤバい!」と思いつつ、つまらないプロ根性が出て「写真を撮らなきゃ」と思ってギリギリまで逃げないでいたら、後ろからハイネケンの瓶が飛んで来て、右の耳元スレスレをかすめてステージの上で「ガシャーン」と砕け散り、やっと怖くなってステージの裏に逃げました。スピードが付いていたので、頭にぶつかっていたら、いまでも残るような傷になっていたでしょう。傷の代わりに、カメラにはカーテルと忍者がかろうじて写っている、ブレた写真が残っていました。

新人カーテルも好きでしたが、ニンジャマンはその10年以上前からファンです。ヒットがあろうとなかろうと、忍者男は最強に大事。「年上にリスペクトがないっちゅうのはどういうことやねん!」と、ジュンちゃんとプンスカ怒りながら帰りました。

翌年、グリーンスリーヴスのセッティングで、カーテルの取材が実現しました。話してみると、ものすごく頭がいい。彼と仕事をした人間は全員、同じ感想を言います。語彙が豊富で、表現が的確で。義理堅いところもあって、Riddimの表紙になったのがとても嬉しかったらしく(私の権限では全くないのですが)、以来、アーティストとライターの関係において、いつもよくしてくれました。ただし、このときに、ニンジャマンに殴りかかった一件について 「“Bad publicity is still publicity”(悪評も評判のうち)。あれで有名になったし、仕事が増えたからいいんだ」と、うそぶかれ、その瞬間に彼のもう一つの暗い面が浮かんでようで、「怖い」と感じたのも、よく覚えています。

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