ディヴィッド・サンボーン宅の素敵すぎる天井と、『誰も知らない』in BAM

昨日は珍しくジャズのお仕事を頂いて、アルトサックスの第一人者、ディヴィッド・サンボーンさんのお宅(!)に行って来ました。大物を取材する度に思うのは、一流の人は態度も一流、ステージも素敵なら本人も素敵、ということ。

すばらしい音楽を作っていたり、歌声を持っていたりする人=すばらしい人、ではないのですが(そうであって欲しいけれど、まぁ、実際はそうでないケースもままあります)、もう「レジェンド」レヴェルまで行っている大御所は、人間としての奥行きもグーーーーンと深いのです。とくに、70年代にすでにミュージシャンとして活動していた人は、たいがい粋でチャーミング、ディヴィッドさんもまさにそのタイプ。

アッパー・ウエストにあるサンボーン邸は4階建てのブラウンストーン。最上階の天窓があるホーム・スタジオもすてきでしたが、リヴィング・ルームの天井が本当にすばらしかった。建築家の友人に聞かないと何の様式か分からないのですが、デイヴィッドさんによると「1920年代からのオリジナルのデザイン」だそうで。

プロのフォトグラファーさんと行く時は、失礼になるので私はカメラをなるべく持たないようにしています。昨日組んだのは、友達でもある田中のあつこちゃん。彼女も同意見だったのに、天井の写真を撮って欲しい、と頼むのを忘れました。

でも、一番大事なデイヴィッドさんの写真も話もきっちりゲットしたので、よしとしましょう。

夜はBrooklyn Academy Music の映画館で上映された是枝裕和監督の『誰も知らない(Nobody Knows』を観て来ました。早い回だったら監督の質疑応答もあったのですが、ディヴィッドさんの取材があったので仕方ありません。

映画は、覚悟していましたが、応えました。元の話をリサーチして行ったので、ずっと大泣きになるかと思ったら、そういう撮り方はしておらず、ひたすら淡々とエピソードを重ねていくやり方。カメラワークが素晴らしく、様々なフィルム・フェスティヴァルで評価が高かったのも納得。ただ、そのエピソードの中で、お年玉袋の名前の字が違う、とか、現金書留を映して送金があったことを知らせる、といった、日本人にしか分からないようなものもあり、つき合ってくれたアメリカ人の友人の感想が一言、「長い」だったのも、むべなるかな、と。

あと、元になった話の結末を教えたら「母親が罰せられるところは、どんな形でも入れるべきだ」と、アメリカ人らしいことも言っていました。それから、エンディング・ロールで母親役が“You”と表記されるのを、「あなた、だって」と右隣の知らない人が苦笑いしながら勘違いしていたので、「いや、あれは役者さんの名前で…」と説明してあげようか、と思ったのですが、おっかなそうなタイプだったので黙ってました。

私は、映画を観ることは本を読むことに近い能動的行動で、ひたすら受動的なテレビを見る行為とは対極にあると思っています。では、テレビで映画を鑑賞するのはどうなんだ、という話もありますが、テレビ用にエディットされたハリウッド映画は「見る」、劇場用とあまり変わらないヴァージョンで、自分で情報を選び取っていかないといけない場合は「観る」行為になるような気がします。

同じ本でも、映画でも、受け手によってまったく違う体験になるし。

すぐには泣かなかったけれど、朝の5時に目が覚めた時は子供達の顔が何度も浮かんで、1時間ぐらい頭の中で追体験をしていました。あちこちで書かれているように、大人の無関心が一番問題だと思うのですが、(私も含めて)日本人がどうにもこうにも見栄っ張りなところ、人と違うとすぐに恥ずかしいと思ってしまうところも、歪みを生む原因のような気がしました。

私の周りには、母親ひとりで子供を育てている友達が多いけれど、みんな「だからどーした」という態度で、一生懸命やっています。ひねくれていないし、恥にも思っていないし、思う必要もない。だから、私の血の繋がっていない甥っ子や姪っ子達はスーパー伸び伸びとしています。お父さんがいなくていい、と言うつもりはないです。お父さんがいろんな形で存在するのもあり、ということです。

なんか、話がどんどん逸れていますが。

あと、カンヌ映画祭で最少年で主演男優賞を14才(だった)少年にあげたのは、その後のことを考えたら、逆に酷だったのでは、とも少し思いました。

とにかく、何年か前から気になっていた映画を歩いて観に行けたのは良かったです、ハイ。

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