寅さんと、『コンビニ人間』

『ニューヨーク・フーディー』の発刊準備で鬼のようにメールを打ちながら(いよいよ明日です)、歯医者さんに行ったり、ダイソーの品揃えにクラクラしたり、変な日本人として楽しく生きています。

 

アメリカにも99セント・ショップあるけど、品物の7割が「安かろう悪かろう」だから、決まったものにしか手を出せません。

 

その間、先の芥川賞受賞作『コンビニ人間』を読み、『男はつらいよ〜柴又慕情』を母と観ながら大笑いしました。

 

どちらも、社会の「ふつう」からはみ出した異端の存在が主人公。

結婚しない(できない)、家族に半分諦められている、でも基本的に自分を肯定している、との共通項はあるものの、40年もの月日で日本を代表する「はみ出し者」はこうも変わったか、とびっくりするくらい正反対。

一番大きな違いは、『コンビニ人間』の古倉さんは他人に興味がない。すべてに醒めているけれど、彼女の関心ごとは自分がどう見られるかだけ。自分、自分、自分。

 

一方の寅さんは、頼まれもしないのに人の世話ばかり焼いています。そして、自分の気持ちを押し殺して、おきまりの失恋パターン。

 

車寅次郎ワールドはザ・昭和だから、わかるかわからないかは世代差の問題だけれど(寅さんで大笑いできる10〜20代っていいな、とは思います)、『コンビニ人間』は、世代問わずほとんどの人が「現代を鋭くえぐり出している/現実的」との論評。

 

どうしよう。

 

私は、それがわからないのです。カリカチュアというか寓話だと捉えて読んでしまった。

 

小説としては、おもしろく読みました。「何がふつうなの?」という問いかけと、ふつうから外れた場合の息苦しさも伝わってきた。でも、あんなに紋切り型の「ふつう」な人たちって、それほど多いかな? ほかの人の生き方に口を出す人ってそれほどいないような。主人公が感じるプレッシャーは、「世間の常識」にこだわる自分自身がかけている気がしました。

 

作者の伝えたいことをはっきりさせるためだけに出てくる人々が多いのが、寓話っぽいと思った理由。

 

それより、極端なケースとはいえ、古倉さんみたいにマニュアル通りに動ける人の方がずっとたくさんいると思う。感じ方が少数派なだけで、彼女はいたってふつうだと私は思いました。内面と言動のズレも、多かれ少なかれ、みんな抱えている。どこに出かけても、歯医者さんの椅子に座っていても、私は「マニュアル通りの言葉」にしか出会わない。それが、いまの日本の「正しさ」であり、「ふつう」だもの。

 

フーテンの寅さんは、昔の不良のステレオタイプではあるけれど、マニュアルが全く通用しない自由人。時代が交差したとして、古倉さんと寅次郎で会話が成り立つか不思議です。

 

 過度なマニュアル化が、日本人を100均の品物みたいに均してしまった。‥って月並みな結論だけれど、まぁ、そういうことなのでしょう。

寅さん&me in 柴又。ええ、結構なファンです。

 

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