カーテル、カーテル、カーテル その2

続きです。

2006-2010 トップに上り詰めるまで
この事件以降、カーテルは曲の良さだけでなく、話題作りで知名度を上げる味をしめ、この戦略を積極的に取っていきます。バウンティの元カノのディエンジェルがビーニ・マンと婚約、またライヴァル再燃でニュースになっている最中に、カーテルはアライアンスに居ながらビーニ・マンに近づき、ちゃっかり結婚式に出席しました。当然、番長は激怒。ビジーやアサシンともケンカになり、結局、06年にアライアンスを抜けてポートモア・エンパイアーを結成。同年の『J.M.T.』の取材で、彼がアメリカのヒップホップ事情に通じていて、半分はラッパーのビーフをマネしていたのを知っていたので(50セントも同じ方法で有名になりました)、計算づくだろうなぁ、と思いながらも、モヴァードとの口喧嘩はシャレにならないレヴェルまでヒートアップしたのは、さすが心配してました。

ふたりの出身地でくくって、Gaza VS Gullyの闘争になったのは、記憶に新しい人も多いでしょう。両方から出て来る曲のレベルも低いし、本気でケンカする高校生まで出るし、みんながリリックと現実の境目がわからなくなって行くようで、ニュースとして伝えないといけなかった反面、ちっとも面白くなかった。モヴァードもカーテルも歌詞の過激さで、ほかの国で逮捕されたり、ショウごと中止になったり。ヒット曲を飛ばして人気を集めながらもメディアに叩かれまくって、ガリー・ゴッドもティーチャーもどんどん卑屈になって行くようにも見えました。


(06年NYにて。このときは知りませんでしたが、この家の女性と結婚してヴィザを取得する予定だったようです)

 

これと平行して、イギリスとアメリカでダンスホール特有のゲイ・バッシングのリリックが、同性愛者の人権団体のやり玉に上がり、ビーニ・マンやシズラがイギリスに入国できなくなったり、ブジュのツアーにデモ隊が押し掛けたり、06年にイタリアのナポリで行われた冬期オリンピックのキャラクターとして、エレファント・マンとダンスホールを使うつもりだったプーマがプロモーション自体を見合わせたりと、ダンスホールが一転して国際社会で嫌われ者になります。カーテルもとばっちりを受け、それまではショーン・ポールやエレファント・マンと並んで、 ミッシー・エリオット、エイコン、リアーナらのヒップホップやR&B勢の客演大将として人気で、グリーンスリーヴスの次はメジャーデビューか? くらいの話もあったのに、立ち消えになりました。

ジャマイカ国内では、Gaza VS Gullyは08年のスティングのモヴァードとカーテルのクラッシュでピークを迎え、翌年に過熱を心配した政府が間に入って、「仲良し会見」をすることで一旦、収束します。ヒップホップ勢との客演大将はマヴァードに移り(Gユニットから始まって、ワイクリフ、バスタ、ファボラス、ドレイク、そして、ジェイ・Z)、彼はその分、海外にいることが多くなります。一方のカーテルはスパイスとの“Rampin Shop”と“Clarks”の特大ヒットを放ち、とうとうトップに上り詰めます。

08年の『Teacher’s Back』のリリースにあたり、3度目で(たぶん)最後のカーテルの取材をしました。キングストンの自宅での取材で、お迎えのタクシーを送ってくれるほどのジェントルマンぶり。息子と一緒の写真も撮ったら、本人から欲しい、と言われたので、あとからメールで送りました。ジャマイカ人は「えー? なんだって?」と聞き返したり、びっくしたりしたときに、「イー?」と素っ頓狂な声を出します。私はそれがすごくツボで、そう返されると大笑いしてしまうのですが、取材中にカーテルもやったので、必要以上にウケたら、3回もくり返してくれました。そのとき出来ていた「全面的にR-rated」なアルバムも、その場でCDを焼いてくれましたし、その後、 ストリート・ヴァイブス・ラムと、ダガリング・コンドームをWoofin’のコラムで紹介するから、とメールで伝えたら、すぐに写真を送ってくれたこともあります。


(これを見て「送って」と言った顔は、完全にパパでした。切ない)

 

そういう楽しい思い出のあるアーティストだったからこそ、ポートモア・エンパイアーを離れたアーティストたち(リサ・ハイプ、ジャー・ヴィンチ、ブラック・ライノ、ガザ・キム)が揃って彼の暴力的な面を糾弾したときは、辛かった。肌をブリーチし始めたときは、もっとイヤでした。グリーンスリーヴス時代から彼のパブリシストを務めて、彼とずっと仲がいい友人が「色白の人は、黒くしたくて日焼けサロンに行くじゃない? あれの逆。大騒ぎするほどのことじゃない」と言い出した際は言い返すのも面倒で、黙っていました。肌の色の濃淡で差別があるジャマイカで、皮膚ガンの危険を冒して肌を漂白することは、日焼けサロンに行くのとは全く次元の違う話です。

私は、勝ち上がるために、顔のよし悪しなど外見がほとんど関係ない、ダンスホール特有のタフネスを気に入っています。語弊を恐れずに書くと、シーンに踊り出たときは食うや食わずで野良犬みたいな空気をまとっていたアーティストが、売れて堂々として来るのを見るのが大好き。その例にモロに当てはまっていたカーテルが、肌が灰色になり、髪にドレッドのウィーヴを付けているのは心底ガッカリしました。この人、自分がキライなんじゃ、とまで思いました。この件については、T.O.K.のベイ・Cが面白い意見を言っていました。彼曰く、「ドラッグ・ディーラーのボスで一番イケてる奴が、ちょっと前からブリーチしてああいう見た目なんだよ。それで凄みを増してマネする奴が増えたから、カーテルもそうしたんじゃないか」。本人も「憶測だけど」と言っていましたが、金持ちを意味するライトスキンに憧れたよりもマシ、と思った私の感覚もちょっとおかしいかも知れません。

2009年にアメリカ政府がジャマイカのコカイン王、ドゥダスの身柄を要求、ジャマイカ政府が内政干渉として拒否したため、余波でビーニ・マンやバウンティ・キラー、モヴァードがアメリカに入れなくなりました。カーテルはここに引っかかりませんでしたが、その前からヴィザが出ない状態だったので、同じことでした。出稼ぎができないアーティストも辛かったし、ニューヨークほかアメリカの都市で待っているファンはつまらないし、治安の悪化でジャマイカのダンスは取り締まりが厳しくなるしで、ダンスホールのシーン全体にお金が回らない状況に。ドゥダスの大捕り物劇が2010年5月にが実行され、ティボリ・ガーデンで多くの人が死に、国全体が殺伐となります。ヒット数や注目度でカーテルはダントツでしたが、メディアからの叩かれ方も激しくなり、彼と一緒に仕事をしていた友だちから「気難しくなった」という話が耳に入って来るようになりました。

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