言葉のちから。

昨日は小春日和という言葉がぴったりの陽気だったのに、今日は雨のち雷。さっきまでピカピカどんどん、凄かったです。3月11日から1ヶ月経ったのに、地震が止んでいないこと。原発の漏れも収束していないこと。

とても日本を心配しています。友達づきあいでも、同じ心持ちの日本人とどうしてもつるんでしまったり、アメリカ人でもこちらの気分を察せられる人を選んでしまったり。「このまま行くと魚が食べられなくなる」という話をいきなり電話でする人は、悪気がないとはいえ、長く話すのはちょっときつい。私が必要以上に繊細さんでいるのはよくないのですが。

Twitterに本腰を入れ始めてから2ヶ月、面白みも、怖い面もわかって来ました。

デマや風評被害という時事的なマイナスもそうですが、140字でそのときの気持ちをつぶやく、というコンセプトは、喋り言葉のように気軽。だから、何気ない言葉があふれているわけですが、読み物として残るという意味ではメディアなんですよね。読むメディアの特性として、話し言葉よりずっと強く響く、というのがあります。

話題を集めた「人の金を集めていいことをしたと思うなよ」の一言は、決して得意ではない募金活動をした身としては傷ついたし、特定の人同士のやりとりは、内容によっては自分が入っていない会話を耳元でされているような居心地の悪さがあります(強い言葉が入っていると、無視しようにも目に飛び込んで来ます)。

Facebookとは違って相互関係がなくてもよし、ひいては誰かに発信してスルーされるのも当たり前、という残酷さも。って悪口ばかり書いていますが、楽しんでいる面の方が大きいのです。今日も、電車を間違えて出来てしまった待ち時間を難なくつぶせたし。

ただ、こうやって不特定多数の人に同時発信が誰でもできるようになって、言葉のあり方が変わって行くのだろうなぁ、と。日本の将来を明るく描くのがどうしても困難な時期です。あえて明るい材料を探すとしたら、ブログやツィッターでみんなが自由に表現ができるになり、今までよりもいろんな意見があって当たり前、という社会になるような気がしています。

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